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2 感情移入

「あ、あの魚、私を許してくれると思う?」
 マユは、机の上に置かれた象のぬいぐるみ
に質問した。
「カケラはみんな拾いましたか?」
 私はマユの視界に入らないところから、象
のかわりに答えてやる。
「うん。いつ、いつもみたいに、紙に、紙に
包んで箱に、しまった」
「だったら、魚もさみしくないですよ。割れ
たあとでも、あなたのそばにいますから」
「そうね。そうね、そうね」
 マユはソファから立ち上がって振り向いた。
痩せた頬、おびえた白い顔の右半分にかかる
黒い髪。バロックのしるしの遠い左目。
「ああ、ありりがとう。また来、ます」
 料金を払うためにマユが取り出した財布は
使い古されて汚れていた。もとは、何かの絵
がついていたのだろうが、まるで見えない。
 だが、金はちゃんとした本物だった。
「今日は何? 割れたお皿の魚の懺悔?」
 机の下で様子をうかがっていたルビが顔を
出し、小さな象の両耳を広げて持ち上げた。
「そうだ。おい壊すなよ、それはあの客にと
っちゃこの部屋の主なんだ」
 ぬいぐるみや小物、皿に描かれた魚にいた
るまで、マユは、「物」のキャラクターと話
し、声を聞き、生身の相手との接触を避ける。
マユにとってぬいぐるみを壊すことは殺人と
同じ罪であり、割れた皿をゴミに出したら死
体遺棄だ。だが、生きている以上は、物を消
費し続けねばらならない。マユは罪の意識に
苦しんで、いつも震える声で話をする。
「ああいう客って、めずらしいよね」
「通うタイプか? そうだな」
 マユはこれまで事務所に三度来ていた。
「あの子のためのバロックはできてるんでし
ょ。なんで渡してあげないの」
「タイミングがあるからさ。金は来るたびに
払ってくれるし」
「あ、そう。だけどメルヘンなキツネってち
ょっと気持ち悪い」
「客にはあれでちょうどいいんだ」
「私なら、あの子をシャボン玉のバロックに
してあげる。壊れた物の魂は消えるんじゃな
くて、空気の中に広がるの。メルヘン」
「だからお前はプーなんだよ。バロック屋に
は向かないね」
 私は机に向かってマシンをたちあげた。マ
ユのファイルにバロックを少し追加する。
「……私帰る」
 ルビが私に象を投げてよこした。
「道端で食われるなよ」
 遠くから、ジュワンジュワンと警報が聞こ
える。あれは異形発見を知らせるハンターの
サインであることは、もはや公然の秘密だっ
た。夜の街は日に日に危険度を増していたが、
ルビは気にもとめない様子で出ていった。
 どこへ帰るのか、私は知らない。

 4日過ぎてマユがまた来た。
 顔にも服にも黒いすすのようなものをつけ
ていた。私は急いでチビ象を机の上に置き、
自分はマユの背後にまわった。マユは象に向
かって泣きくずれた。
「みみみみんなシシ死んでしまった。燃えて
真っ黒なカカ、タマリになってしまった」
「誰が燃えたんです?」象の私が訊く。
「車、の中にいた子たち。隠れて、隠れてた
のたのに、ああ、会いに行ったら、火事、火
事に火事、になってた」
 たしかに、マユの体からは融けた合成樹脂
や焦げた髪の毛のような匂いがする。
 私は黙ってマユの気のすむまで泣かせた。
 柱の時計で12分後、マユは顔をあげて象に
うなずいた。
「そうね。今度こそ、あの透きとおった悪霊
に復讐してやる」
 マユの声はいつになくしっかりしていた。
「透きとおった悪霊」とは、おそらくマユの
家族、母親だ。悪霊がときどきみんなをさら
っていく、と嘆いたことがある。母親が物を
片づけているに違いない。燃やしたのが母親
のしわざかどうか知らないが、このまま帰せ
ば、マユは母親に「復讐」して危害を加える
かもしれない。
「待ってください。その前に、これを」
 私はチビ象の隣のコンピュータに向かい、
マユのために用意していたバロックのファイ
ルを呼び出して見せた。
『私の目はビデオカメラのレンズである。私
の捕らえた映像は、左向きの老人が管理する
場所に蓄積されている。映像は私の目の中で
未来を消し、過去となって楽しく眠り続ける。
眠らせるのが私の仕事。秘密を守り、ときに
過去を照らす老人は私の祖父だ……』
「じゃあ、いるの?」
 マユは前髪をかきあげた。バロックの左目
は象を見ていたが、髪の下からあらわれた右
目は私を見ていた。
「ええ。あなたが7歳のときに道で落とした
手袋についていた雪だるまも、今日燃えたお
菓子の包み紙に描かれた女の子も。あなたが
会いたいと思えば、いつでも会えます」
「悪霊は?」
「老人が追い払ってくれるでしょう」
「……そうね……」
「このバロックでよろしいでしょうか?」
「うん。ありがとう」
 マユが出ていくのと入れ替わりにルビが入
ってきた。ルビもマユと同じ煙の匂いをさせ
ていた。そういえば、この前はマユのあとを
追うように出ていったが……。

「私じゃないよ。やったのは、そばにいた放
火好きのバロックの子。……たぶん」
「なんでマユのあとをつけたんだ」
「ヒマだったし、キツネがあの子にあげたバ
ロックを見る前に、あの子が異形に食べられ
たりしたらつまんないから」
「ボディガードのつもりか。それでマユの大
事な物が燃やされりゃ世話ないな」
「でも、キツネが渡したバロックがあるなら
現実は燃えたって関係ないよ」
「いまだから言えるんだろ」
 たしかに、マユは物を愛して捨てずに溜め
込んでいたのではない。捨てられた物が悲し
んだり、自分を恨んだりするのが怖かっただ
けだ。そう、ちょうど自分自身が透きとおっ
た悪霊を憎んだように。
 だが、物の心を感じ取るのがマユの使命で、
物たちはマユをつうじて妄想の場所に保管さ
れているなら、マユは恐怖から解放される。
「チビ象はもういらないの?」
「欲しければやる」
「もらう。じつは私、メルヘン好きなの」
 また4日後に、マユの母親と名乗る女性が、
ケーキを持って訪ねてきた。
「ありがとうございました。あの子がやっと
ガラクタの山を処分してくれました」
 ひとつ食べると案外うまい。ルビに絶対や
りたくないのですぐに隠した。が、ふたつめ
をこっそり食べる間もないうちに、マユは遺
書のかわりにビデオテープを遺して死んだ。
 ケーキを食べてビデオは見ないというので
は、透き通った悪霊の味方になる。私はビデ
オをデッキに入れた。埃をかぶった古いデッ
キで見るせいか、画像に光る点が散っていた。
 画面では、マユがアップになっている。
「おじいちゃんのところへ引っ越します」
 ひとこと言うと、マユは顔を左側へ向け、
ハサミで自分の右目を深く突いた。いや、と
背後で声がするので振り向くと、いつの間に
かルビが来てビデオを見ている。私はビデオ
を巻き戻し、何度も何度も再生した。そのた
びにマユは、おじいちゃんのところへ引っ越
します、と言って右目を突いて、何度も死ん
だ。私はマユの入ったテープを取り出した。
この黒い四角形は、いまはマユそのものだ。
「本当に、物の世界へ行っちゃったんだね」
「ああ」
 私は自分の仕事の確かさに安堵していた。
老人の顔を左向きにしてよかった。マユが左
目を突いていたら、バロックのまま死ねたか
どうか怪しい。過去の管理人はいつも左を向
いているものだ。
 ルビが生意気なため息をついた。
「キツネは、絶対に物に心はないと思う?」
「メルヘンか?」
「……これ。今朝見たらこうなってたの」
 ルビはチビ象を手にしていた。黒いボタン
の右目がくり抜かれて穴になっていた。

vol.2 “EMPATHY” END
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