「あ、あの魚、私を許してくれると思う?」 |
マユは、机の上に置かれた象のぬいぐるみ |
に質問した。 |
「カケラはみんな拾いましたか?」 |
私はマユの視界に入らないところから、象 |
のかわりに答えてやる。 |
「うん。いつ、いつもみたいに、紙に、紙に |
包んで箱に、しまった」 |
「だったら、魚もさみしくないですよ。割れ |
たあとでも、あなたのそばにいますから」 |
「そうね。そうね、そうね」 |
マユはソファから立ち上がって振り向いた。 |
痩せた頬、おびえた白い顔の右半分にかかる |
黒い髪。バロックのしるしの遠い左目。 |
「ああ、ありりがとう。また来、ます」 |
料金を払うためにマユが取り出した財布は |
使い古されて汚れていた。もとは、何かの絵 |
がついていたのだろうが、まるで見えない。 |
だが、金はちゃんとした本物だった。 |
「今日は何? 割れたお皿の魚の懺悔?」 |
机の下で様子をうかがっていたルビが顔を |
出し、小さな象の両耳を広げて持ち上げた。 |
「そうだ。おい壊すなよ、それはあの客にと |
っちゃこの部屋の主なんだ」 |
ぬいぐるみや小物、皿に描かれた魚にいた |
るまで、マユは、「物」のキャラクターと話 |
し、声を聞き、生身の相手との接触を避ける。 |
マユにとってぬいぐるみを壊すことは殺人と |
同じ罪であり、割れた皿をゴミに出したら死 |
体遺棄だ。だが、生きている以上は、物を消 |
費し続けねばらならない。マユは罪の意識に |
苦しんで、いつも震える声で話をする。 |
「ああいう客って、めずらしいよね」 |
「通うタイプか? そうだな」 |
マユはこれまで事務所に三度来ていた。 |
「あの子のためのバロックはできてるんでし |
ょ。なんで渡してあげないの」 |
「タイミングがあるからさ。金は来るたびに |
払ってくれるし」 |
「あ、そう。だけどメルヘンなキツネってち |
ょっと気持ち悪い」 |
「客にはあれでちょうどいいんだ」 |
「私なら、あの子をシャボン玉のバロックに |
してあげる。壊れた物の魂は消えるんじゃな |
くて、空気の中に広がるの。メルヘン」 |
「だからお前はプーなんだよ。バロック屋に |
は向かないね」 |
私は机に向かってマシンをたちあげた。マ |
ユのファイルにバロックを少し追加する。 |
「……私帰る」 |
ルビが私に象を投げてよこした。 |
「道端で食われるなよ」 |
遠くから、ジュワンジュワンと警報が聞こ |
える。あれは異形発見を知らせるハンターの |
サインであることは、もはや公然の秘密だっ |
た。夜の街は日に日に危険度を増していたが、 |
ルビは気にもとめない様子で出ていった。 |
どこへ帰るのか、私は知らない。 |
4日過ぎてマユがまた来た。 |
顔にも服にも黒いすすのようなものをつけ |
ていた。私は急いでチビ象を机の上に置き、 |
自分はマユの背後にまわった。マユは象に向 |
かって泣きくずれた。 |
「みみみみんなシシ死んでしまった。燃えて |
真っ黒なカカ、タマリになってしまった」 |
「誰が燃えたんです?」象の私が訊く。 |
「車、の中にいた子たち。隠れて、隠れてた |
のたのに、ああ、会いに行ったら、火事、火 |
事に火事、になってた」 |
たしかに、マユの体からは融けた合成樹脂 |
や焦げた髪の毛のような匂いがする。 |
私は黙ってマユの気のすむまで泣かせた。 |
柱の時計で12分後、マユは顔をあげて象に |
うなずいた。 |
「そうね。今度こそ、あの透きとおった悪霊 |
に復讐してやる」 |
マユの声はいつになくしっかりしていた。 |
「透きとおった悪霊」とは、おそらくマユの |
家族、母親だ。悪霊がときどきみんなをさら |
っていく、と嘆いたことがある。母親が物を |
片づけているに違いない。燃やしたのが母親 |
のしわざかどうか知らないが、このまま帰せ |
ば、マユは母親に「復讐」して危害を加える |
かもしれない。 |
「待ってください。その前に、これを」 |
私はチビ象の隣のコンピュータに向かい、 |
マユのために用意していたバロックのファイ |
ルを呼び出して見せた。 |
『私の目はビデオカメラのレンズである。私 |
の捕らえた映像は、左向きの老人が管理する |
場所に蓄積されている。映像は私の目の中で |
未来を消し、過去となって楽しく眠り続ける。 |
眠らせるのが私の仕事。秘密を守り、ときに |
過去を照らす老人は私の祖父だ……』 |
「じゃあ、いるの?」 |
マユは前髪をかきあげた。バロックの左目 |
は象を見ていたが、髪の下からあらわれた右 |
目は私を見ていた。 |
「ええ。あなたが7歳のときに道で落とした |
手袋についていた雪だるまも、今日燃えたお |
菓子の包み紙に描かれた女の子も。あなたが |
会いたいと思えば、いつでも会えます」 |
「悪霊は?」 |
「老人が追い払ってくれるでしょう」 |
「……そうね……」 |
「このバロックでよろしいでしょうか?」 |
「うん。ありがとう」 |
マユが出ていくのと入れ替わりにルビが入 |
ってきた。ルビもマユと同じ煙の匂いをさせ |
ていた。そういえば、この前はマユのあとを |
追うように出ていったが……。 |
「私じゃないよ。やったのは、そばにいた放 |
火好きのバロックの子。……たぶん」 |
「なんでマユのあとをつけたんだ」 |
「ヒマだったし、キツネがあの子にあげたバ |
ロックを見る前に、あの子が異形に食べられ |
たりしたらつまんないから」 |
「ボディガードのつもりか。それでマユの大 |
事な物が燃やされりゃ世話ないな」 |
「でも、キツネが渡したバロックがあるなら |
現実は燃えたって関係ないよ」 |
「いまだから言えるんだろ」 |
たしかに、マユは物を愛して捨てずに溜め |
込んでいたのではない。捨てられた物が悲し |
んだり、自分を恨んだりするのが怖かっただ |
けだ。そう、ちょうど自分自身が透きとおっ |
た悪霊を憎んだように。 |
だが、物の心を感じ取るのがマユの使命で、 |
物たちはマユをつうじて妄想の場所に保管さ |
れているなら、マユは恐怖から解放される。 |
「チビ象はもういらないの?」 |
「欲しければやる」 |
「もらう。じつは私、メルヘン好きなの」 |
また4日後に、マユの母親と名乗る女性が、 |
ケーキを持って訪ねてきた。 |
「ありがとうございました。あの子がやっと |
ガラクタの山を処分してくれました」 |
ひとつ食べると案外うまい。ルビに絶対や |
りたくないのですぐに隠した。が、ふたつめ |
をこっそり食べる間もないうちに、マユは遺 |
書のかわりにビデオテープを遺して死んだ。 |
ケーキを食べてビデオは見ないというので |
は、透き通った悪霊の味方になる。私はビデ |
オをデッキに入れた。埃をかぶった古いデッ |
キで見るせいか、画像に光る点が散っていた。 |
画面では、マユがアップになっている。 |
「おじいちゃんのところへ引っ越します」 |
ひとこと言うと、マユは顔を左側へ向け、 |
ハサミで自分の右目を深く突いた。いや、と |
背後で声がするので振り向くと、いつの間に |
かルビが来てビデオを見ている。私はビデオ |
を巻き戻し、何度も何度も再生した。そのた |
びにマユは、おじいちゃんのところへ引っ越 |
します、と言って右目を突いて、何度も死ん |
だ。私はマユの入ったテープを取り出した。 |
この黒い四角形は、いまはマユそのものだ。 |
「本当に、物の世界へ行っちゃったんだね」 |
「ああ」 |
私は自分の仕事の確かさに安堵していた。 |
老人の顔を左向きにしてよかった。マユが左 |
目を突いていたら、バロックのまま死ねたか |
どうか怪しい。過去の管理人はいつも左を向 |
いているものだ。 |
ルビが生意気なため息をついた。 |
「キツネは、絶対に物に心はないと思う?」 |
「メルヘンか?」 |
「……これ。今朝見たらこうなってたの」 |
ルビはチビ象を手にしていた。黒いボタン |
の右目がくり抜かれて穴になっていた。 |
vol.2 “EMPATHY” END